台湾茶年表
台湾茶はずっと今の姿だったわけではありません。淡水税関に記された最初の輸出から、輸出から内需への転換、製茶規制の撤廃、そして茶農が自ら作り自ら売りはじめるまで——その曲がり角のすべてが、いま手にする一袋の中に残っています。
- 1865茶産業
台湾茶輸出のはじまり
淡水税関がこの年、8万2千キロ余りの茶の輸出を記録しました。台湾茶輸出の最も早い公式記録で、龍潭一帯の烏龍茶が大漢渓を下って淡水関に運ばれていたことも記されています。同じ頃、ジョン・ドッドが北部の茶産地を踏査し、安渓の苗と製茶師を導入。台湾茶は粗製から精製へ移ります。
- 1867茶産業
輸出等級の最高位「白毫烏龍」
当時の洋行は台湾烏龍(番庄烏龍)を22等級に分け、その最上位が extra choice 白毫烏龍——現在の東方美人の前身です。この年ドッドは初の精製烏龍をマカオへ試験的に送り、1869年にはニューヨークへ直航。「Formosa Oolong」の名が欧米に定着しはじめます。
- 1878茶産業
茶園が桃園・新竹・苗栗へ広がる
この年の海関報告は率直です。15年前は大稲埕周辺の斜面に茶樹はほとんど見られなかったが、今は一面が茶樹で、番界まで続いている、と。栽培は北緯24度まで南下し、ほぼ台湾中部に達し、新竹が新興の産茶地となりました。
- 1895茶産業
研究機関の設置と茶業の基礎
日本統治の開始とともに、総督府は茶園を開墾し、茶樹栽培と茶葉試験の研究所を設け、病虫害防除や品種改良を奨励しました。台湾茶が茶商と茶農の手探りだけでなく、長期的な技術的裏づけを持った最初の時期です。
- 1905茶産業
楊梅で紅茶の製造がはじまる
日本台湾茶業株式会社が楊梅に紅茶製造の工場を設けます。台湾茶の品目は烏龍の外へ広がり、桃園一帯は紅茶の系譜につながりました。
- 1936茶産業
峨眉庄茶業組合が発足
新竹・峨眉の茶農が組織化されます。産地に共同の販売と品質管理の窓口ができ、のちに峨眉が茶園面積で北埔を上回る組織的な下地となりました。
- 1961茶産業
龍潭が対日輸出向けの蒸し製緑茶を作る
桃園・龍潭に、対日輸出向けの蒸し製緑茶を専門に作る工場が現れます。同じ産地が市場の求めに応じて品目を変える——のちに龍潭が膨風茶へ転じられた理由でもあります。
- 1968茶産業
沙坑茶廠が極東最大の製茶工場に
輸出全盛期の規模の記録です。7年後の項目と並べて読むべきもの——最大の工場が現れて数年後、産業全体の向きが変わります。
- 1975茶産業
分水嶺——輸出から内需へ
1975年以前の台湾茶は輸出中心で、以後は内需へ移り、1980年代に逆転が完了します。内需では価格を決めるのは品評会——特等賞・一等賞を取った茶は価格が数倍になる。北埔は老街と古蹟で観光を興し膨風茶の名を広め、峨眉はこの後、茶園面積で北埔を上回り現在に至ります。
- 1982茶産業
「台湾省製茶業管理規則」の廃止
規制が解かれ、製茶が単一の規則に従う必要がなくなります。小規模の茶農が自ら製造・販売できるようになり、産地の姿はここから複雑になりました。今日、山で見かける自園自製自販の茶園の出発点です。
- 1990茶産業
桃竹苗の東方美人産業チェーンが形成
北埔と峨眉が分業します。峨眉が原料を供給し、北埔が販売を集約。栽培は苗栗・頭份、桃園・龍潭、新竹・関西へ広がり、地域をまたぐ東方美人の商品チェーンが形成されました。この時点で「産地」は一点ではなく網です。